経済学のセールスと弾式学習法


ここでのやりとりを見ながら思っていたこと。
http://d.hatena.ne.jp/raistlin_majere/20061125

根本的な誤りは、(おそらくは)成長しない=現状維持だという認識で、成長しない=退歩というのが正確なところです。


なるほど。私なんか単純に、「断言しよう。経済成長を追っているうちはまだ日本は中二病なのだと。」なんて文章をみれば、ここで使っている経済成長の意味は、前段の文脈からみて、今の方向性のまま「過剰に頑張れ」を追うのは辞めよう程度の意味かと軽くスルーしてしまうところですが、これを起点に利用するのですね。無論、経済成長は wiki - 経済成長 のような意味以外の何者でもないので、正しくない使い方をしているので非難されるべき対象であるので、注意を申し上げたという事でしょう。その一方で、

なぜかというと、「経済」とか「GDP」という言葉に本質的な多義性があるからです。


という見方もあるように、原義の意味の解釈を無条件で前提としたbewaad氏の批判が妥当なものだったのかというと疑問も浮かびます。弾氏のエントリでの経済成長の使われ方は、そちらに目を向けているが為に(それが非難対象として妥当かどうかはともかく)、置き去りにされている何かがあるのではないのか?と言う趣旨だと理解するのが、文章の読みとしては妥当な解釈でしょう。特に官僚の方が「くたばれGNP」とか「経済成長反対!」と言ったコントロバーシーを産みやすいキーワードに敏感なのは判りますが、結構強引な持ち込み方でもあるように見えます。当然ですが、国民に向かってblogを立ち上げてメッセージを発しておられる官僚氏や、教養という名を冠した書を執筆されている程の方が二人して、庶民が使用する言葉にはこの程度は本来の意味との齟齬がある事の認識がないなんて有り得ません。そこを読解できていなくて「ご自身にはその自覚がないままであるという」可能性は万に一つもないにも関わらず、敢えて経済成長の誤用を批判する形式でもって、敢えて苦言を呈すという意思の元に行われた事だと思います。ですから、弾氏の主張は徹底して叩いておかなければなりません。「経済成長を追っているうちはまだ日本は中二病なのだ」という類の主張は


・潜在成長率という社会が自動的に効率化する事の否定
・失業者がどんどん増える
・悟りに至れば煩悩に苦しむことはなくなる
原始仏教の修行者
・効率化のためのあらゆる努力をやめろ


といった、今の日本の社会情勢から見れば、反社会的言説以外のなにものでもないと言う存在にしてしまうのがスマートな方法ですね。元の弾氏の主張に、この羅列にある意図があったかどうかはともかく、このように定義付けられれば、挙げられた解釈一つ一つを訂正する気力を無くさせる効果がありますから、勢いは大事ですね。ここで、まだ異を唱えるなんて、イラク戦争開戦時に反対を唱えるアメリカ市民ぐらいにあり得ない気分になります。このようにbewaad氏は、議題設定の不明確さをついて、経済成長の経済学的意味に議題設定の再設定を行いました。ここで弾氏は自身の経済成長観を否定されたことによって、議題の意図の正確な再定義ではなく、自分の理解での経済学への違和感をぶつけることを選んだ訳ですね。かくして経済学の売り込みが開始されたと言う感じでしょうか。それ以降の流れは、最初の、あいまいな議題設定に割り込んで強力な議題設定(=経済学の売り込み)が為されている以上、今更流れの変更は利きません。さらには、疑似科学と同じ構造であるとまで言われてしまいます。

ただ、そうであれば、例えば、「人間の幸福はお金を持つことだけではない」と伝えればいいのであって、そこに「GDPの概念がおかしい」とか、「経済成長という考え方がおかしい」ということを、(その経済学的な理解に誤解のある形で)言う必要はないのではないでしょうか?


疑似科学との類似を指摘される事で弾氏は、逆に経済学の限界を問い返します。

そして現在の経済学は、数多の(私の意見を含む)「トンデモ経済学」と比較して、どの程度合理性が高いのだろうか。少なくとも、現在の物理学ほど合理的でないのは確かだろう。いや、「現在の経済学」とひとくくりにすら出来ない。同じ「経済学」といってもミクロとマクロではてんでばらばらのことを言っているように見える。「ここまではどの経済学者に聞いても同じ答が出てくる」というものが極めて薄いのだ。


そして不備な点として、弾氏は本領の、Opensource Softwareを引き合いに経済学の不完全性を指摘します。それに対し、山形氏も自訳のエリック・レイモンド三部作(伽藍とバザール、 ノウアスフィアの開墾、 魔法のおなべ)を出して経済学が扱っている領域だと主張するようになります。(ここに両者の考え方、立場の違いが出ていて、ここを詰めて行くと面白そうですがそれはおいといて) 実践者側の論理として、贈与のモデルで納得しろといわれると、これは主観の問題になってしまいます。さらにそれが不服であれば自分で理論化せよという話になっています。この辺り、疑問をもっている客相手に、セールス的にはどうかという感じもしますが、山形氏も疲れてきたのでしょう。問題の仕切り直しを勧告します。


404 Blog Not Found:There's gotta be more than one theory to run the bazaar-山形さんのコメント
あなたの最初の主張は、経済成長を求めるのがまちがっているということでした。
(略)
問題を仕切り直したほうがよろしいのではないでしょうか。
今の日本においては、経済成長よりも先に考えるべきことがあるのではないか、と言ったのです。また、経済成長一般が悪だと言った訳でもありません。


弾氏はここで、一番最初にbewaad氏が塗り替えた点を指摘します。なるほど、ここでやっと分かりました。弾氏は、経済学の考え方から学習出来る事を効率よく吸収するために、齟齬は無視してボールをどんどん投げて引き出していたという事なのですね。確かに、最初から、決め付けの論点を非難した点を最初から指摘して「言葉尻を捉えて、私の論旨とは関係ない印象を作っておられますが、私の使った言葉の使用法は、あなたの仰るとおりの意味ではありません。ごきげんようさようなら」と言ってしまったら、そこで終わってしまいますからね。経済学に馴染んだ人が、国民生活の改善や国力増大の基準でしかない経済成長に、「各種発展途上国、つまりはかれらの生活水準の向上を助けることになる」といったロマンティック?な意味を感じているといった事を開陳してもらうには、流れで面白いものがあれば、そちらにすぐ興味が移って行く弾式学習法あってこそなのかなと。もちろん、『山形浩生 の「経済のトリセツ」Supported by WindowsLiveJournal 』的にも、経済学の効能の啓蒙活動としては充分と言った感じでしょう。商品説明のように役に立つかどうかを判断するタイプの知識を手に入れる学習法としては、効率的なやり方ですね。


という風に、これはこれで興味深いやりとりを見せて頂きました。私はもう完全に弾氏の惹きつけ方の巧みさに「あー釣られてた」という感じです。と、それでもいいのですが、「宵越しの金を持たないとのたれ死にするのではないかと不安」という話に興味をもって見ていた一読者的には、やはりもやもやとしたものが残るのです。のたれ死にする不安そのものが具現化されている事態、国民健康保険料高騰化、ワーキングプアな人々の存在といったナショナル・ミニマムの底が抜けている事への対処の話そのものが雲散霧消された事に。*1

*1:これは、別に非難とかではないです。私が単に日曜日のNスペ(ゆきづまる国民健康保険)を見ていてふと、今後人が不完全義務みたいな物に取り組もうとした時に、もしこのケースのように起点の話が別方向に行くやりとりの一例を整理して(整理になってないかも)みたくなっただけです。今回のやりとりの齟齬がどんなものかを見ておけば、「経済成長は手段か目的か?」における「社会選択のシステムがパレート効率的であるにも関わらず不平等な配分に収束しうるというのだ」という問題を、経済成長論議から切り離して、自由に論議できるとよいなと思っただけです