なぜ『フェアトレード』なのか−その3−


このエントリーは、こちらの続きです。
 なぜ『フェアトレード』なのか
 なぜ『フェアトレード』なのか−その2−


フェアトレードの問題点として、今まで見てきた点より重要な点があると梶氏が指摘されている点について見てみます。

 もちろん、これには例えばRAなどによる認証ラベルが市場で「プレミアム・コーヒー」であることの正しいシグナルとして広く認識されていることが必要になる。しかし、ここに必ずしも「プレミアム・コーヒー」と同じだけの品質を保証しないが、多くの消費者にとって本当の「プレミアムコーヒー」と見分けがつかない、そんな「類似品」の認証ラベルが出回ったとしたら?RAの戦略にとっては大きな脅威になるだろう。

 そう。僕が言いたいのは、フェアトレードの認証こそが「プレミアム・コーヒー」にとってのそういった「類似品」になる可能性があるかもしれない、ということだ。


RAのような、複合付加価値型の商品の普及を阻害するというものですね。しかし、私はそれは論点がずれているように思いました。

 もっとも、フェアトレード団体も品質基準を含めた独自の認証を行ってはいる。しかし、それは明らかに生産者が公正な収入を受け取ることに力点が置かれていて、品質については国際的な輸出基準を満たす以上の要求は特に行っていないように思える。


と仰っていますが、問題はフェアなトレードの達成であって、品質という付加価値では無かった筈では?というものです。梶氏はRAをこう表現されています。

それに対して、レインフォレスト・アライアンスの活動はどうだろうか。僕なりに理解したところでは、RAの活動とは、生産者の努力を促すことによって、通常のコーヒー豆とは「一味違う」プレミアム・コーヒーという新たな財(とその市場)を作り出し、農家の所得向上とともにコーヒー豆全体の価格が下落することにも一定の歯止めを掛けよう、というものだ。


RAのコーヒーについてそう表現できるのであれば、フェアトレードの意味を同じいいまわしで表現する事もできるでしょう。

 それに対して、フェアトレードコーヒーはどうだろうか。僕なりに理解したところでは、フェアトレードの活動とは、生産者に労働に見合った適正価格が支払われることと、それを確認している事で、通常のコーヒー豆と「気分が違う」プレミアム・コーヒーという新たな財(とその市場)を作り出し、該当農家の所得向上を図るものだ。


こう言えるのではないのか?という私の物の見方がおかしいのか、疑問に思って調べ物をしている間に、経営系大学講師をなさっているid:fuku33氏が、的確に表現されていました。


        感情商品・正義商品の研究へ(@福耳コラム)


私が、なぜ「なぜ『フェアトレード』なのか」という疑問を持っているのは、まさにこの点なのです。The Economistやそれを翻訳した山形氏は、フェアトレード商品を、普通に商品として見る事が出来ていないのではないのですか?という点に違和感を覚えました。現代の消費者は、例えば今の話題で言えば、WiiとPS3の関係を見てもわかるように、今までのハードと大差ないものにリモコン型コントローラつけたものを新型機として売り出したらそちらの方が人気を得たりする状況です。消費者が注視する視点は多様な物があり、その中で「善意の消費」という市場を形成する事が何か、資本主義・市場原理の上で、倫理に反するような行為*1をしているとでもいいたげな物言いをしている事に不思議な感じを覚えていました。


こちらのコメント欄での'# 山形'氏が、id:wlj-Fridayと同一の山形氏かどうかについては本人確認の手段が無いので留保しますが、興味深い意見を書かれていました。ですが、やはり論理立てには問題があるように思います。

で、おっしゃっていることは基本的には貧乏であること自体を商品として売ってもうければいい、ということです。が、これは基本的にサステイナブルではないので、特殊な条件下で短期間しか成立しないでしょう。なぜサステイナブルでないかといえば、理由は二つあります。まず何より、この世において貧乏は稀少性がなく、貧乏人はそれこそ腐るほどいるからです。そしてもう一つの理由は、貧乏を売り物にしてもうけてしまった人は、ヘタに貧乏でなくなるとかえって食えなくなるかもしれないという変な状況におかれかねないからです。おっしゃっていることはこうした条件を見ないふりをして、一時的でもどんなインチキなレトリックを使ってもいいから、とりあえず金持ちから金をむしり取れればいいんだ、しょせんマーケティングの一種よ、というシニカルな発想です。


まず、永続性に対して疑問を投げかけるのであれば、それが市場原理ですよとしかいいようがないように思います。一時的にでも収入が増加するのであれば、それが選択肢を広げる可能性の拡大にこそなれど、彼らの自立の阻害要因だとする論陣を張るのはあまりにも無理があるように見えます。フェアトレードの『永続性』に疑問を挟むという問いかけは、本質的な問題そのものに比べても、議題に上げるほど重要な問題でしょうか?。永続的ではないという「可能性も考えられうる」といった推測でしかないものです。また、「ヘタに貧乏でなくなるとかえって食えなくなるかも」という問いは、生産農家がその労働に対して正当な報酬を受け取れていないという本質的問題から派生した差分であるところのフェアトレードが抱える問題点の中の、さらに「類推すれば考えられうる」可能性でしかないものに過ぎないように思うのですが。ほとんど屁理屈とでも申しましょうか、そのような見方こそ「フェアトレードの恩恵を受けた農家が卑小でずる賢い存在だと見下すような見方である」と思うのは考えすぎでしょうか?
あくまでも、「コーヒー、カカオ、コメ、綿花、コショウの暗黒物語」に記載されている情報を信じるならば、さまざまな経緯により、結果としてむき出しの市場原理に晒された事で立ち行かなくなった農民に、いかにして実効性のある救済策*2を知恵を出す事で問題を解決に導く事が、ミッションの筈です。

一時的でもどんなインチキなレトリックを使ってもいいから、とりあえず金持ちから金をむしり取れればいいんだ、しょせんマーケティングの一種よ、というシニカルな発想です。まあそういう卑しい身過ぎ世過ぎもあるのは知ってはおりますし、それが実際使われている場面も多々見てはおりますが、それが本当に狙いとしていた目的に貢献しているかどうか
は考える必要があると思います。


私は、フェアトレードの精神にそって活動する人が、そのような発想で行っているかどうかは分かりませんが、フェアトレード活動を「一時的でもどんなインチキなレトリックを使ってもいいから、とりあえず金持ちから金をむしり取れればいいんだ、しょせんマーケティングの一種よ」と解釈する感性は、シニカルなものに思えます。もしご自身がシニカルではなく、そのようなシニカルな行為に疑問を呈する程繊細な感性に立脚しているのであれば、世の中の新自由主義とか自由貿易推進とか言っている人たちの論理である「自由な市場こそ至上の善である」を適用した結果が、コーヒー農家にどのような影響をもたらしたかを考えると、そちらの方が遥かに重大な問題には見えないでしょうか?。ここでフェアトレードが市場原理でシニカルに見えるというのであれば、それはおそらく新自由主義の蔓延に対応して生まれた運動だからそうなっただけで、因果関係としては、結果に当たるのでしょう。原因に当たる部分はこちらのような事だと思います。

  • 世界銀行の支援の下、ベトナムがコーヒー市場に参入し100万トン規模で市場に供給が溢れた事。
  • ICO(国際コーヒー機関)が出荷量の調整を行う輸出割当制度の再構築は「自由貿易の原則に反する」行為であるという言説。
  • その結果として、たまたまネスレ等の多国籍企業が「市場原理の原則に従って」市場価格を押し下げる取引を行うことが出来る環境にある。


このような「原因」は、「ヘタに貧乏でなくなるとかえって食えなくなるかもしれないという変な状況」や「しょせんマーケティングの一種よ」を危惧なされる程に物事を慮る力がある訳ですから、当然認識されているものかと推察します。ミッションとは、現実に起きている状況に対して実効的な対応策を取る事でしょう。それを少しでも達成しようとする「エンジニアリング」の一手段として浮上したのがフェアトレードというだけの事です。フェアトレードの人たちがやっているのは、世の中の趨勢がこのような自由貿易市場原理主義であるならば、そこで取り残された競争力の無い小規模農家に対しての緊急的な手当てを自由市場の論理行う仕組みを確立しようとしているに過ぎないように見えるのですが。フェアトレードを調べるための参考文献を読んでいて、フェアトレードを表現するのに、面白いレトリックが用いられていました。それに倣ってフェアトレードとその外側を例えてみます。

  • コーヒー農家が、自立出来るような仕組みを作るというミッションに対するソリューションとして、cathedral型の手法もあれば、bazaar型の手法もある。
  • cathedral型は動きが鈍い。→The Economistがいう「投票はやっぱり投票箱でやらなくてはならないのだ。」は動いているのかすら疑問が沸く方法。
  • bazaar型は、自然発生型、無数のスタイルがある。例えば反スウェットショップ運動なんかは、sourceforge.netに埋もれた未完成プロジェクトのようなもので、フェアトレードはその中で支持され残ったプロジェクトである。


そのように準えると、The Economistや、そこからフェアトレードの記事を抜粋してきた山形氏の姿勢は、bazaar型でやっているLinuxを攻撃していた、スティーブバルマーと重なってすら見えてしまいそうです。私が懸念するのは、フェアトレード活動の「永続性」のような細かな点に言及するのであれば、先にそれ以上に本質的な問題について言及する必要があるのではないかという事です。そこを踏まえずにフェアトレード活動が及ぼす正の効果に付随する負の効果の側面にいちいち些細な苦言を呈する事が、かえって本質的問題を隠蔽する事に繋がる危険性を持つという事を危惧してしまうのは、考えすぎでしょうか。それが、なぜ本質的問題を差し置いて「なぜ『フェアトレード』なのか?」という疑問です。


もちろん、The Economistフェアトレードの価格プレミアが農家に行き渡る率の非効率性を指摘する事は正しいでしょう。これについて考えるには、フェアトレードは小規模な閉鎖系での活動と、企業相手のフェアトレードラベルの活動という二つに分けて考える方が良いように思います。前者はこちらや、RAのように、地域と密着した活動で閉じた系を形成しているもの。それに対して、後者はこのように企業にラベルの使用許可を販売し、その遵守を監視、そして消費者に認知を広める事を志向したものです。The Economistが指摘するフェアトレードラベルのプレミア分と生産者が受け取る額との乖離問題については、性質上後者についての問題ですね。こちらこちらの、2006年5月3日の記事:コーヒー農家の未来を保障するものとは?(原文)に言及されているような見方から考えると、それは普及の問題であると考えてるようです。良シナリオを描くとすれば

  • アーリーアダプターが高コスト覚悟で負担する事は、フェアトレードラベルが「お馬鹿な消費者識別装置」と見られていても、メーカーにとってラベルの受け入れは「毒を食らう」という事に繋がる認識があっての事
  • 普及につれて、ラベルが付いている事が、プレミア価格をつけていい理由としてだんだん認められなくなる圧力は高くなっていく
  • 最終的には問題の本質は、ネスレのような買い付けシステムが利益を全部取っている実態にある事だという啓蒙が進み「違いのわかる」消費者が成長する
  • メーカーはCSRとして全面的に適正価格を払ったり、C.A.F.Eプログラムのようなものを導入する事を図る事を求められる

という可能性を考えてみましたが、消費者が本質的な問題を認知するペース次第ではないかと。企業に社会的役割を負わせるというのは、グローバルスタンダードな考え方*3になりつつあるようですから、可能性が無くはないと思います。ただ、フェアトレード運動を調べていると、根っこにはやはり旧植民地問題が底流には絡んでいるような面を感じますし、日本におけるフェアトレードは、閉じた系の草の根フェアトレードが地味に活動しているだけの状況が爆発的に進展するようには思えません。問題の本質を考えるのであれば、日本でフェアトレードという手法が適切なのかは、やはり疑問を抱きます。






参考URL:
RAのコーヒーの価格
Wiki:Economics of coffee
Wiki:Fairtrade certification
Black gold: the figuresの項

*1:一連のフェアトレードへの物言いを検討する限り、反倫理的なほど問題点であるとは思えないのにも関わらず

*2:ベトナムのコーヒー市場への参入の背後にある世界銀行の動きは「人災」と表されても仕方ない事を考慮すると、救済と言う表現は不適切だという見方も十分考えられますが、それはおいて、「立ち行く方法」と言う意味とお考え頂きたく。

*3:日本経済団体連合会「希望の国、日本(p82)」にも書かれているぐらいに?