なぜ『フェアトレード』なのか−その3−


このエントリーは、こちらの続きです。
 なぜ『フェアトレード』なのか
 なぜ『フェアトレード』なのか−その2−


フェアトレードの問題点として、今まで見てきた点より重要な点があると梶氏が指摘されている点について見てみます。

 もちろん、これには例えばRAなどによる認証ラベルが市場で「プレミアム・コーヒー」であることの正しいシグナルとして広く認識されていることが必要になる。しかし、ここに必ずしも「プレミアム・コーヒー」と同じだけの品質を保証しないが、多くの消費者にとって本当の「プレミアムコーヒー」と見分けがつかない、そんな「類似品」の認証ラベルが出回ったとしたら?RAの戦略にとっては大きな脅威になるだろう。

 そう。僕が言いたいのは、フェアトレードの認証こそが「プレミアム・コーヒー」にとってのそういった「類似品」になる可能性があるかもしれない、ということだ。


RAのような、複合付加価値型の商品の普及を阻害するというものですね。しかし、私はそれは論点がずれているように思いました。

 もっとも、フェアトレード団体も品質基準を含めた独自の認証を行ってはいる。しかし、それは明らかに生産者が公正な収入を受け取ることに力点が置かれていて、品質については国際的な輸出基準を満たす以上の要求は特に行っていないように思える。


と仰っていますが、問題はフェアなトレードの達成であって、品質という付加価値では無かった筈では?というものです。梶氏はRAをこう表現されています。

それに対して、レインフォレスト・アライアンスの活動はどうだろうか。僕なりに理解したところでは、RAの活動とは、生産者の努力を促すことによって、通常のコーヒー豆とは「一味違う」プレミアム・コーヒーという新たな財(とその市場)を作り出し、農家の所得向上とともにコーヒー豆全体の価格が下落することにも一定の歯止めを掛けよう、というものだ。


RAのコーヒーについてそう表現できるのであれば、フェアトレードの意味を同じいいまわしで表現する事もできるでしょう。

 それに対して、フェアトレードコーヒーはどうだろうか。僕なりに理解したところでは、フェアトレードの活動とは、生産者に労働に見合った適正価格が支払われることと、それを確認している事で、通常のコーヒー豆と「気分が違う」プレミアム・コーヒーという新たな財(とその市場)を作り出し、該当農家の所得向上を図るものだ。


こう言えるのではないのか?という私の物の見方がおかしいのか、疑問に思って調べ物をしている間に、経営系大学講師をなさっているid:fuku33氏が、的確に表現されていました。


        感情商品・正義商品の研究へ(@福耳コラム)


私が、なぜ「なぜ『フェアトレード』なのか」という疑問を持っているのは、まさにこの点なのです。The Economistやそれを翻訳した山形氏は、フェアトレード商品を、普通に商品として見る事が出来ていないのではないのですか?という点に違和感を覚えました。現代の消費者は、例えば今の話題で言えば、WiiとPS3の関係を見てもわかるように、今までのハードと大差ないものにリモコン型コントローラつけたものを新型機として売り出したらそちらの方が人気を得たりする状況です。消費者が注視する視点は多様な物があり、その中で「善意の消費」という市場を形成する事が何か、資本主義・市場原理の上で、倫理に反するような行為*1をしているとでもいいたげな物言いをしている事に不思議な感じを覚えていました。


こちらのコメント欄での'# 山形'氏が、id:wlj-Fridayと同一の山形氏かどうかについては本人確認の手段が無いので留保しますが、興味深い意見を書かれていました。ですが、やはり論理立てには問題があるように思います。

で、おっしゃっていることは基本的には貧乏であること自体を商品として売ってもうければいい、ということです。が、これは基本的にサステイナブルではないので、特殊な条件下で短期間しか成立しないでしょう。なぜサステイナブルでないかといえば、理由は二つあります。まず何より、この世において貧乏は稀少性がなく、貧乏人はそれこそ腐るほどいるからです。そしてもう一つの理由は、貧乏を売り物にしてもうけてしまった人は、ヘタに貧乏でなくなるとかえって食えなくなるかもしれないという変な状況におかれかねないからです。おっしゃっていることはこうした条件を見ないふりをして、一時的でもどんなインチキなレトリックを使ってもいいから、とりあえず金持ちから金をむしり取れればいいんだ、しょせんマーケティングの一種よ、というシニカルな発想です。


まず、永続性に対して疑問を投げかけるのであれば、それが市場原理ですよとしかいいようがないように思います。一時的にでも収入が増加するのであれば、それが選択肢を広げる可能性の拡大にこそなれど、彼らの自立の阻害要因だとする論陣を張るのはあまりにも無理があるように見えます。フェアトレードの『永続性』に疑問を挟むという問いかけは、本質的な問題そのものに比べても、議題に上げるほど重要な問題でしょうか?。永続的ではないという「可能性も考えられうる」といった推測でしかないものです。また、「ヘタに貧乏でなくなるとかえって食えなくなるかも」という問いは、生産農家がその労働に対して正当な報酬を受け取れていないという本質的問題から派生した差分であるところのフェアトレードが抱える問題点の中の、さらに「類推すれば考えられうる」可能性でしかないものに過ぎないように思うのですが。ほとんど屁理屈とでも申しましょうか、そのような見方こそ「フェアトレードの恩恵を受けた農家が卑小でずる賢い存在だと見下すような見方である」と思うのは考えすぎでしょうか?
あくまでも、「コーヒー、カカオ、コメ、綿花、コショウの暗黒物語」に記載されている情報を信じるならば、さまざまな経緯により、結果としてむき出しの市場原理に晒された事で立ち行かなくなった農民に、いかにして実効性のある救済策*2を知恵を出す事で問題を解決に導く事が、ミッションの筈です。

一時的でもどんなインチキなレトリックを使ってもいいから、とりあえず金持ちから金をむしり取れればいいんだ、しょせんマーケティングの一種よ、というシニカルな発想です。まあそういう卑しい身過ぎ世過ぎもあるのは知ってはおりますし、それが実際使われている場面も多々見てはおりますが、それが本当に狙いとしていた目的に貢献しているかどうか
は考える必要があると思います。


私は、フェアトレードの精神にそって活動する人が、そのような発想で行っているかどうかは分かりませんが、フェアトレード活動を「一時的でもどんなインチキなレトリックを使ってもいいから、とりあえず金持ちから金をむしり取れればいいんだ、しょせんマーケティングの一種よ」と解釈する感性は、シニカルなものに思えます。もしご自身がシニカルではなく、そのようなシニカルな行為に疑問を呈する程繊細な感性に立脚しているのであれば、世の中の新自由主義とか自由貿易推進とか言っている人たちの論理である「自由な市場こそ至上の善である」を適用した結果が、コーヒー農家にどのような影響をもたらしたかを考えると、そちらの方が遥かに重大な問題には見えないでしょうか?。ここでフェアトレードが市場原理でシニカルに見えるというのであれば、それはおそらく新自由主義の蔓延に対応して生まれた運動だからそうなっただけで、因果関係としては、結果に当たるのでしょう。原因に当たる部分はこちらのような事だと思います。

  • 世界銀行の支援の下、ベトナムがコーヒー市場に参入し100万トン規模で市場に供給が溢れた事。
  • ICO(国際コーヒー機関)が出荷量の調整を行う輸出割当制度の再構築は「自由貿易の原則に反する」行為であるという言説。
  • その結果として、たまたまネスレ等の多国籍企業が「市場原理の原則に従って」市場価格を押し下げる取引を行うことが出来る環境にある。


このような「原因」は、「ヘタに貧乏でなくなるとかえって食えなくなるかもしれないという変な状況」や「しょせんマーケティングの一種よ」を危惧なされる程に物事を慮る力がある訳ですから、当然認識されているものかと推察します。ミッションとは、現実に起きている状況に対して実効的な対応策を取る事でしょう。それを少しでも達成しようとする「エンジニアリング」の一手段として浮上したのがフェアトレードというだけの事です。フェアトレードの人たちがやっているのは、世の中の趨勢がこのような自由貿易市場原理主義であるならば、そこで取り残された競争力の無い小規模農家に対しての緊急的な手当てを自由市場の論理行う仕組みを確立しようとしているに過ぎないように見えるのですが。フェアトレードを調べるための参考文献を読んでいて、フェアトレードを表現するのに、面白いレトリックが用いられていました。それに倣ってフェアトレードとその外側を例えてみます。

  • コーヒー農家が、自立出来るような仕組みを作るというミッションに対するソリューションとして、cathedral型の手法もあれば、bazaar型の手法もある。
  • cathedral型は動きが鈍い。→The Economistがいう「投票はやっぱり投票箱でやらなくてはならないのだ。」は動いているのかすら疑問が沸く方法。
  • bazaar型は、自然発生型、無数のスタイルがある。例えば反スウェットショップ運動なんかは、sourceforge.netに埋もれた未完成プロジェクトのようなもので、フェアトレードはその中で支持され残ったプロジェクトである。


そのように準えると、The Economistや、そこからフェアトレードの記事を抜粋してきた山形氏の姿勢は、bazaar型でやっているLinuxを攻撃していた、スティーブバルマーと重なってすら見えてしまいそうです。私が懸念するのは、フェアトレード活動の「永続性」のような細かな点に言及するのであれば、先にそれ以上に本質的な問題について言及する必要があるのではないかという事です。そこを踏まえずにフェアトレード活動が及ぼす正の効果に付随する負の効果の側面にいちいち些細な苦言を呈する事が、かえって本質的問題を隠蔽する事に繋がる危険性を持つという事を危惧してしまうのは、考えすぎでしょうか。それが、なぜ本質的問題を差し置いて「なぜ『フェアトレード』なのか?」という疑問です。


もちろん、The Economistフェアトレードの価格プレミアが農家に行き渡る率の非効率性を指摘する事は正しいでしょう。これについて考えるには、フェアトレードは小規模な閉鎖系での活動と、企業相手のフェアトレードラベルの活動という二つに分けて考える方が良いように思います。前者はこちらや、RAのように、地域と密着した活動で閉じた系を形成しているもの。それに対して、後者はこのように企業にラベルの使用許可を販売し、その遵守を監視、そして消費者に認知を広める事を志向したものです。The Economistが指摘するフェアトレードラベルのプレミア分と生産者が受け取る額との乖離問題については、性質上後者についての問題ですね。こちらこちらの、2006年5月3日の記事:コーヒー農家の未来を保障するものとは?(原文)に言及されているような見方から考えると、それは普及の問題であると考えてるようです。良シナリオを描くとすれば

  • アーリーアダプターが高コスト覚悟で負担する事は、フェアトレードラベルが「お馬鹿な消費者識別装置」と見られていても、メーカーにとってラベルの受け入れは「毒を食らう」という事に繋がる認識があっての事
  • 普及につれて、ラベルが付いている事が、プレミア価格をつけていい理由としてだんだん認められなくなる圧力は高くなっていく
  • 最終的には問題の本質は、ネスレのような買い付けシステムが利益を全部取っている実態にある事だという啓蒙が進み「違いのわかる」消費者が成長する
  • メーカーはCSRとして全面的に適正価格を払ったり、C.A.F.Eプログラムのようなものを導入する事を図る事を求められる

という可能性を考えてみましたが、消費者が本質的な問題を認知するペース次第ではないかと。企業に社会的役割を負わせるというのは、グローバルスタンダードな考え方*3になりつつあるようですから、可能性が無くはないと思います。ただ、フェアトレード運動を調べていると、根っこにはやはり旧植民地問題が底流には絡んでいるような面を感じますし、日本におけるフェアトレードは、閉じた系の草の根フェアトレードが地味に活動しているだけの状況が爆発的に進展するようには思えません。問題の本質を考えるのであれば、日本でフェアトレードという手法が適切なのかは、やはり疑問を抱きます。






参考URL:
RAのコーヒーの価格
Wiki:Economics of coffee
Wiki:Fairtrade certification
Black gold: the figuresの項

*1:一連のフェアトレードへの物言いを検討する限り、反倫理的なほど問題点であるとは思えないのにも関わらず

*2:ベトナムのコーヒー市場への参入の背後にある世界銀行の動きは「人災」と表されても仕方ない事を考慮すると、救済と言う表現は不適切だという見方も十分考えられますが、それはおいて、「立ち行く方法」と言う意味とお考え頂きたく。

*3:日本経済団体連合会「希望の国、日本(p82)」にも書かれているぐらいに?

なぜ『フェアトレード』なのか−その2−


このエントリーは、こちらの続きです。
 なぜ『フェアトレード』なのか


「本当の問題」を踏まえた上で、The Economistの記事を読むには、フェアトレードという多層的な面を持った概念全般に関して、読者も記事に書かれていない問題点についての知識も踏まえていないと正しく理解できません。例えば、「スターバックス VS エチオピア」を見て、この主張について検討するには、この問題に関する知識を得る必要があります。


・事のあらまし
 スターバックスに、エチオピア産コーヒー豆の「商標出願」妨害疑惑 - 米国
スターバックスCSR(企業の社会的責任)について広報しているページ
 Coffee CSR スターバックス
スターバックスCSRの事例のレポート記事
 CSR Archive Vol.2
・駐日エチオピア大使館のサイトからエチオピア政府の主張
 スターバックスは農民の年間歳入見積り額US8800万ドル(約100億円)を生み出しうる・特製品コーヒー名を商標登録するエチオピアの計画を妨害


まず、スターバックスのプログラムについては、広報ページからは「C.A.F.E.プラクティスを遵守するサプライヤーから優先的に買い付け」とだけあるので、C.A.F.E.調達の比率までは書いてないのは気になりますが、スターバックスで飲む分には生産者に、市場価格より23%多く支払っているコーヒーが飲めるようです。生活的にそれが妥当かどうかはともかく、CSRという言葉的には果たしているといってよいのではないでしょうか。それに対して、スターバックスエチオピアの商標登録の妨害の存在の真偽や、商標を取ることによるエチオピアの利益と、スターバックスの推薦する地域認証式の利益の効果と、どちらが有益か比較する材料を揃えるのは、かなり大変そうです。「本当の問題」の一部ではありますが局所的な印象を受けます。*1
フェアトレード論の中心的な問題は、倫理的な食べ物はかえって有害かもしれない。とその詳細版の、「買い物かごで投票?」 よりフェアトレードの部分を抜粋(原文:Voting with your trolley)という事になるのですが、これらの記事は全般の趣旨としては、フェアトレード有機食品、地産地消(food mile)、それ自体は性質の違う3つの消費者の選択をミックスして、非効率だと懸念を示す構成になっています。間違える人はいないと思いますが、フェアトレードとそれ以外の概念を混同しないようにそれらについて少し触れておきます。


有機食品
 Wikipedia - 有機農産物
 これは日本においても概念的にも根付いているので、その功罪については簡単に手に入りますね。
 
 
地産地消
 これを日本語の概念に当てはめて正しいのか分かりませんが、food mile(Wikipedia - フードマイレージ)として、日本でも最近ちらほら聞くようになった概念の妥当性への疑問ですね。これはこれで、この記事で指摘されたような「正しい指摘」に対する疑義もあったり(例えば http://www.diplo.jp/articles05/0501-3.html)して向こうでは論争になる話題のようです。*2


「本当の問題」には直接関係ないところを除いたので、フェアトレードに取り掛かれます。一連の翻訳記事に関連した、フェアトレードの構造の詳細を考えると、問題点の整理のし辛さに頭を抱えてしたのですが、大学で経済学を教えられている梶ピエール氏が、この記事の内容を分析されておられるのでそれを参考にしたいと思います。


世界のコーヒーの生産量はなぜ減らないのか。(@梶ピエールの備忘録。)
さらにしつこくフェアトレードについて語る(上)。(@梶ピエールの備忘録。)


こちらをふまえて、The Ecdonomistの言うフェアトレード批判の部分を見てみます。

 いる。まずは経済学者たちだ。フェアトレードに反対する標準的な経済学的議論はこんな具合だ。コーヒー豆のような商品の値段が低いのは作りすぎのせいだから、本来であればそれは生産者に対して、別の作物をつくるようにというシグナルを送るはずだ。でもフェアトレードの上乗せ価格――つまりは補助金――を支払うことで、このシグナルが送られなくなってしまうし、コーヒーに支払われる平均価格を引き上げることで、むしろもっと多くの生産者がコーヒーづくりを始めるようにうながしてしまう。すると、作りすぎがさらに進んで、フェアトレード以外のコーヒー豆の価格はもっと押し下げられてしまい、フェアトレード以外の農民はもっと貧乏になる。フェアトレードは、そもそもコーヒー豆の生産が過剰だという基本的な問題を考えていない、と『まっとうな経済学』(2005) の著者ティム・ハーフォードは述べる。フェアトレードは、かえって生産過剰をひどくしてしまう。

  FLO インターナショナルのブレットマン氏は反論している。実際問題として、農民たちは価格が低いときには他の作物に転作する費用がまかなえない、というのがその議論だ。フェアトレードで得られる上乗せ金があれば、他の作物に転換するための投資もできるじゃないか、と。でも価格保証があるのに、他の作物に転換しようという気はそもそも起こらないのでは?

前回コーヒー生産者の惨状を引用した「コーヒー、カカオ、コメ、綿花、コショウの暗黒物語」では、著者によるフェアトレード批判の章があります。その記載によると2003年、消費国でのフェアトレードコーヒーが1万9000t、コーヒー生産総量650万t、シェアにして0.3%とのことです。このシェアの伸びは35%と確かに伸び率は高いようですが、The Economistが指摘するように、この僅かな可能性に期待してシグナルを読み間違える可能性はあるのでしょうか?残り99.7%の人が高く買ってくれる天使の降臨を待ち望むようになるという筋書きでしょうか?「コーヒーに支払われる平均価格を引き上げることで」というのは、仮にフェアトレードシェアが10%になりそれが二倍で買われたとしたら、平均価格は約110%になるでしょうが、そこで参入の判断をする立場の人が、もしシェアが10%もあれば、それについてはフェアトレードによる上昇分だと言う計算を考慮に入れるでしょう。それだけのパワーを持った時には統計に注釈が付くでしょう。ましてや単にフェアトレード買い上げに夢を抱いて参入、増産、廃業を思いとどまるというのは考えにくいように思います。アフリカ等では今もコーヒーの産出量は増加し続けているそうですが、フェアトレードどころか国際取引市場価格すら知らない人たちが仲買人の言い値で買い取られてしまう構造の中で代替する選択肢がない事によるものだと考える方が説得力を感じます。フェアトレードが増産インセンティブを働かせるほど誤ったシグナルになるのは杞憂のように見えるのですが。フェアトレード対象者の転換のインセンティブについては、保証された価格の水準が満足いくものなら確かに起きないでしょう。ですが、基本的には1/4まで落ち込んだ収入が数割あがった所で本質的な解決でないのは確かでしょう。梶氏も指摘されるとおり、お金に余裕ができる事が離脱コストをまかなえる可能性につながり、離脱機会を高める点は確かでしょう。今後の需要予測や、フェアトレードの永続性のリスク等を勘案して離脱する可能性は生まれます。実がなるまで3〜5年かかる作物を、一概に離脱するのが正解と言い切れるのかも断言は出来ないでしょう(例えば http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20060421/101579/?P=2)。ましてや農産物の本質的な問題があります。梶氏の上のフェアトレードに関する記事に先立ってかかれたフェアトレードに関するエントリの記述を引きます。

 もともと農業は工業にくらべはるかに天候などに左右されやすい、リスクの大きな産業である。こういった農家のリスクは、伝統的には家父長的な地主の「温情」や、村落共同体の「助け合い」や、国家による価格統制などにより抑えられてきた。それらが有効だったのは恐らく、農産品の市場が局所的なものにとどまる限り、生産者の側のショックをある程度消費者価格に転化することが可能だったからである。しかし、コーヒーの例は、グローバル市場に完全に組み込まれた農産物の場合、その生産にかかわるリスクが、多くの場合途上国政府、ましてや零細な農家ではとても立ち向かえないほど深刻なものになることをよく示している。市場がグローバルなものになる以上、農業生産のリスクシェアの仕組みもまたグローバルなものにならなければ、途上国農村経済の安定的な発展は望めないだろう。


農産物の生産量の最適量を判断するという複雑な問題において、フェアトレードが誤ったシグナルを送ることを危惧するのは、かなり重箱の隅を突付くような指摘のように見えます。もちろんThe Economist誌の中には「市場がグローバルなものになる以上、農業生産のリスクシェアの仕組みもまたグローバルなものにならなければ、途上国農村経済の安定的な発展は望めないだろう。」事態への提言のような本質的な話をされている記事は存在するとは思います。ただ、この問題の大きさの絶対値たる比較対象がない中で、単品でこの記事だけを読んだ時に、一次産品の抱える本質的なリスクという背景の大きさと比較して、この記事でのフェアトレード(他の二問題にしてもですが)の描かれ方から連想される印象が、果たしてフェアな扱いなのか、ちょっと疑問に思いました。それはともかく、フェアトレードが持つ市場への悪影響のもっと本質的なものについて、梶氏が上のエントリの続きでなさっていて、そちらの方が重要そうなので、次を見ていこうと思います。ですが、長くなったので続きます。

*1:もしその先を追うならこの辺りの話についてでしょうか http://www.accidentalhedonist.com/index.php/2006/11/03/starbucks_ethiopia_and_the_national_coff

*2:関係ないですが、このライター氏が「昼ごはんに讃岐うどん食べにいくためだけに、自家用機にのって四国まで飛んで行く」なんて話を聞いたら、どう思われるんでしょうね。

なぜ『フェアトレード』なのか

メモ:the economistのフェアトレード記事の日本語訳 by山形浩生氏(@研究メモ by DOJIN氏)


一連のThe Economistの記事のフェアトレードへの姿勢を見ていると、弾氏の経済成長の一言に端を発したやりとり全体への、漠然とした違和感の底流に繋がっているような気もするので少し考えてみることにします。


フェアトレード製品は問題を悪化させるし、まずいし、そもそも本来の目的を果たしていない。」という文章から読み取れる事


・「フェアトレード」は問題を悪化させる
・「フェアトレード」はなにか「本来の目的」がある


という事で、この話を検討するには、まず「フェアトレード」やその「本来の目的」を理解している事が前提となります。
http://cruel.org/cyzo/cyzo200507.html 
以前に、山形氏がここで触れられているように、そもそも山形氏のサイトをチェックする人にとっては、当然頭に入れていて然るべき前提だとは思います。ただ、この記事での山形氏の問題意識は流通業者の社会的地位の不当性に向いているようなので、一般的なフェアトレードの趣旨を、念のために確認しておきましょう。ざっと調べたところ、いろいろ流派があるようですが、言葉どおりの「公正な貿易」の重要性に関する、啓発・実行というのが主流派のようです。国際的にフェアトレードに関する認証を行っているIFATのページの説明です。

フェアトレードとは、貧困のない公正な社会をつくるための、対話と透明性、互いの敬意に基づいた貿易のパートナーシップです。フェアトレードは、特に「南」の立場の弱い生産者に、よりよい貿易の条件を提供しその権利を守ることによって、持続可能な発展を支援します。

フェアトレード団体は、活動のミッションの柱としてフェアトレードを行っています。消費者の支援を得て生産者を積極的に支援し、既存の国際貿易のルールや慣習を変えるために、キャンペーンなどの啓発活動を行ないます。IFATに認証されたフェアトレード団体は、右のマークを掲示しています。

フェアトレードは、単に物を売買しているだけでなく、公正に貿易を行なうことが可能であることを証明しています。既存の貿易のルールや慣習を変える必要があることを明らかにし、どうすればビジネスとして成功しながら人の権利も守ることができるかを示しています。


一見、何の問題もない結構な話に見えますが、The Economistとしては、これを批判している訳ですから、南の立場の弱い生産者や、貿易の条件といった「本来の問題」について理解する必要があるでしょう。フェアトレードで扱う産品で目立ち、The Economistもコーヒーを挙げて話を進めているので、コーヒー価格の低迷の事情について調べてみます。ウェブで見たところ、The Economistで批判されていたオックスファムの日本語のサイトにコーヒー事情の概要がありました。


http://www.oxfam.or.jp/hottokenai/poverty/trade2.htm


コーヒー豆の実質価格が1960年に比べて1/4で、生産コスト割れで教育・医療の最低限の水準を割っている状態で、それが人災であるという主張ですね。かなり大変な事態のようです。これより詳しいことは探し方が悪いのか、webでは見当たらなかったので、実情を詳しく書いた文献にあたってみる事にします。「コーヒー、カカオ、コメ、綿花、コショウの暗黒物語」という長いタイトルの本(原題の意味は「不公正貿易−一次産品の暗黒物語」)が、構造の全体像を詳しく描き出しているので、この本のコーヒーについて書いてある章の各節の内容を大まかに拾い出してみます。本の構成が割と散漫なのですが(扱う範囲が広いのでそれは仕方ないのですが)、整理は大変なので記述を簡単に列挙するだけにとどめます。(以下の抽出も本意を掴んでない不正確な可能性もありますので、正確性を求められる時は必ず本にあたってください)


プロローグ
・最近コーヒーの味が悪くなっている
・2000年初頭、NYで1キロあたり50セント、ロンドンでロブスタ種1t当たり400ドルに低下
・生産者が生活を維持するのに必要とされている価格は1200ドル



・離農民が都市に貧困民として流入
・アフリカでは100万人が飢餓に遭った
グアテマラでは転作するだけの資本を持っていたものは6万人中200人
・貧農、農業労働者は1日2ドル以下の生活。児童労働も行われた。反乱も発生した
・出稼ぎ労働に来た労働者の一群は、差し押さえを目の前にした農場で仕事にあり付けない
・高品質を売りにしていた業者の下でも、生産コストがまかなえないので、肥料・水の節約が行われている
・中央アメリカの中には、コーヒー相場の崩壊により政治的安定が失われた国もある



・ブラジルが国際市場における優位を確保するために増産を図った。すでに需要の鈍化に対して供給が上回り気味だった
・さらに80年代にベトナムが参入し90年代後半には第2位の生産量を誇るほどに急速に供給国として成長した
ベトナムには世界銀行が融資を実行した。ただし主体はあくまでベトナムの国家的政策である
・国際相場価格は崩壊した。反乱がおきた
ベトナム小規模農民は、中央アメリカ農民同様、多額の債務にあえいでいる



・価格安定を図るため、コーヒー国際協定が存在している。1962年、生産国、消費国の75カ国で設立された
・共産圏諸国は加盟しなかった。西側の狙いは農民に適正価格を提示し「マルクス主義の汚染」を阻止する事であった
・生産量制限、生産国の輸出上限枠、消費国の輸入上限枠を設けた。
・1960年代〜70年代の国際相場価格は456グラム当たり120セント前後
・ブラジルで84年の寒波の供給不安等から連鎖的に、輸出枠制度が崩れ始めた



・ブラジルがコーヒー産業は、外貨収入の7%となり、国家的には戦略分野ではなくなったが、農民にとっては相変わらず主要な収入源
・共産圏地域のコーヒーが西側にも流通
・1989年アメリカがコーヒー協定の更新を否定。国際コーヒー機構は、国際貿易枠制度の廃止
・二週間で価格が2/3になった。1987年、コーヒー生産の総収入が140億ドル、1990年90億ドル
・1993年アメリカがコーヒー市場の管理政策を完全に放棄



・協定存在当時、各国の管理組織は、輸出量上限枠を損朱するため在庫を管理した。それが市場の圧力を一定方向に導く役割を持っていた
・1990年代、市場はロンドン・ニューヨークに集約
・安くても1ドルの相場価格だったものが、1992年8月22日には40セントになった



・コーヒー生産国同盟という連盟が設立され、管理貿易の破綻という事態に対処しようとした
世界銀行も輸出量を20%削減することで価格を40%引き上げられるという意見を元に支持した
・2000年9月の輸出から実施したが、それ以前に過剰生産の叩き売りで、焙煎業者は現物の在庫を確保
・実行後も監視手段がなく流通者の負担で在庫する財源もない。
・また相場をコントロールする目論見は、巨大年金基金などの、投機筋のマネーとの対峙に他ならない。
・結局各国の不信感から15ヶ月で崩壊



・高品質で付加価値をつける事で打開を図ろうとする動き
・ドイツが品質向上のためエルサルバドルの農民グループに補助金をつける政策を試みたが、他の生産国は反発
・消費者は品質を求め、生産者は生活の確保が欲しい
アメリカでは、アリゾナの砂漠で移民を図った離農者たちが死亡
・ペルー、コロンビアではコーヒー栽培農民が、麻薬への転作をするようになった
アメリカは国際コーヒー機構に復帰したが、統制経済に戻す気は全く無い



・コーヒー危機で、コーヒー産業全体での利潤分配の構造が変化し、利潤の大半は先進国側の企業が得た
・コロンビアの生産者が、ロンドンの喫茶店で飲まれているコーヒー一杯の価格のうち1%
・コーヒー一パックの価格に対するエチオピアの生産者の取り分は2%
・国際コーヒー産業界全体で、コーヒー豆生産者が得た利潤は1/4に
・1990年初頭から10年間で、コーヒーパック販売で、消費国で販売の利潤は倍増し650億ドルになったが、生産国の利潤は40%→9%になった
・コーヒー先物市場に、年金基金などがなだれ込んでいる。当然市場の論理だけである
・1990年代後半6つの多国籍企業が国際供給量の半分を掌握。仲買人・商社・輸入業者は再編合併された
・相場価格の押し下げの原因は、貿易業者は大手多国籍企業に、大手多国籍企業は大手スーパーに責任があるとなすりつけている



ネスレはインターネットオークションで必要量を提示し、参加者に逆オークション形式で入札させている
・ロンドン市場よりも安い価格で必要量が確保可能
・自らの取引が成立後、ロンドンニューヨークに自社の取引成立価格に近い水準まで価格低下圧力をかけている


エピローグ
世界銀行は国際貿易量制限政策の消滅による被害状況をまとめた
・相場価格の歴史的低迷は、産業体制に影響をもたらし生産者は貧困に陥った
・生産過剰と相場価格低下は生産地の集中を招いた
・ブラジル、コロンビア、ベトナムは1992年の44%から66%になった
・アフリカ、中央アメリカ諸国の生産者は阻害されている
・焙煎業者側は安値で必要な分だけを適宜仕入れる事ができる
・焙煎業者は、生産技術の向上により、ベトナム産ロブスタ種のように質の悪い豆でインスタントコーヒーを生産する傾向が顕著になった


問題とは、かつて協定により生産者は安定して得ていた収入を、消費者は高品質の豆の供給を受けていた。しかし、今はむき出しの市場原理と、生産過剰を解消する能力の欠如により、相場が慢性的に下がっていることで、コーヒー生産に従事する者の多くの生活が破綻している事です。解決するべき課題は、生産者の生活が貧困から抜け出せるような手立ての確立と高品質な豆の安定供給という事ですね。次は、上記の絵図を頭の隅にいれたうえで、そこからなぜフェアトレード批判になるのかについて見ていこうと思います。一連のThe Economistの翻訳を考えるには、購買と啓蒙活動という2つの側面、フェアトレードラベルをつける事の意味、海外と日本のフェアトレードの理念の違い等、それぞれ切り分けて考える必要がありそうです。

経済学のセールスと弾式学習法


ここでのやりとりを見ながら思っていたこと。
http://d.hatena.ne.jp/raistlin_majere/20061125

根本的な誤りは、(おそらくは)成長しない=現状維持だという認識で、成長しない=退歩というのが正確なところです。


なるほど。私なんか単純に、「断言しよう。経済成長を追っているうちはまだ日本は中二病なのだと。」なんて文章をみれば、ここで使っている経済成長の意味は、前段の文脈からみて、今の方向性のまま「過剰に頑張れ」を追うのは辞めよう程度の意味かと軽くスルーしてしまうところですが、これを起点に利用するのですね。無論、経済成長は wiki - 経済成長 のような意味以外の何者でもないので、正しくない使い方をしているので非難されるべき対象であるので、注意を申し上げたという事でしょう。その一方で、

なぜかというと、「経済」とか「GDP」という言葉に本質的な多義性があるからです。


という見方もあるように、原義の意味の解釈を無条件で前提としたbewaad氏の批判が妥当なものだったのかというと疑問も浮かびます。弾氏のエントリでの経済成長の使われ方は、そちらに目を向けているが為に(それが非難対象として妥当かどうかはともかく)、置き去りにされている何かがあるのではないのか?と言う趣旨だと理解するのが、文章の読みとしては妥当な解釈でしょう。特に官僚の方が「くたばれGNP」とか「経済成長反対!」と言ったコントロバーシーを産みやすいキーワードに敏感なのは判りますが、結構強引な持ち込み方でもあるように見えます。当然ですが、国民に向かってblogを立ち上げてメッセージを発しておられる官僚氏や、教養という名を冠した書を執筆されている程の方が二人して、庶民が使用する言葉にはこの程度は本来の意味との齟齬がある事の認識がないなんて有り得ません。そこを読解できていなくて「ご自身にはその自覚がないままであるという」可能性は万に一つもないにも関わらず、敢えて経済成長の誤用を批判する形式でもって、敢えて苦言を呈すという意思の元に行われた事だと思います。ですから、弾氏の主張は徹底して叩いておかなければなりません。「経済成長を追っているうちはまだ日本は中二病なのだ」という類の主張は


・潜在成長率という社会が自動的に効率化する事の否定
・失業者がどんどん増える
・悟りに至れば煩悩に苦しむことはなくなる
原始仏教の修行者
・効率化のためのあらゆる努力をやめろ


といった、今の日本の社会情勢から見れば、反社会的言説以外のなにものでもないと言う存在にしてしまうのがスマートな方法ですね。元の弾氏の主張に、この羅列にある意図があったかどうかはともかく、このように定義付けられれば、挙げられた解釈一つ一つを訂正する気力を無くさせる効果がありますから、勢いは大事ですね。ここで、まだ異を唱えるなんて、イラク戦争開戦時に反対を唱えるアメリカ市民ぐらいにあり得ない気分になります。このようにbewaad氏は、議題設定の不明確さをついて、経済成長の経済学的意味に議題設定の再設定を行いました。ここで弾氏は自身の経済成長観を否定されたことによって、議題の意図の正確な再定義ではなく、自分の理解での経済学への違和感をぶつけることを選んだ訳ですね。かくして経済学の売り込みが開始されたと言う感じでしょうか。それ以降の流れは、最初の、あいまいな議題設定に割り込んで強力な議題設定(=経済学の売り込み)が為されている以上、今更流れの変更は利きません。さらには、疑似科学と同じ構造であるとまで言われてしまいます。

ただ、そうであれば、例えば、「人間の幸福はお金を持つことだけではない」と伝えればいいのであって、そこに「GDPの概念がおかしい」とか、「経済成長という考え方がおかしい」ということを、(その経済学的な理解に誤解のある形で)言う必要はないのではないでしょうか?


疑似科学との類似を指摘される事で弾氏は、逆に経済学の限界を問い返します。

そして現在の経済学は、数多の(私の意見を含む)「トンデモ経済学」と比較して、どの程度合理性が高いのだろうか。少なくとも、現在の物理学ほど合理的でないのは確かだろう。いや、「現在の経済学」とひとくくりにすら出来ない。同じ「経済学」といってもミクロとマクロではてんでばらばらのことを言っているように見える。「ここまではどの経済学者に聞いても同じ答が出てくる」というものが極めて薄いのだ。


そして不備な点として、弾氏は本領の、Opensource Softwareを引き合いに経済学の不完全性を指摘します。それに対し、山形氏も自訳のエリック・レイモンド三部作(伽藍とバザール、 ノウアスフィアの開墾、 魔法のおなべ)を出して経済学が扱っている領域だと主張するようになります。(ここに両者の考え方、立場の違いが出ていて、ここを詰めて行くと面白そうですがそれはおいといて) 実践者側の論理として、贈与のモデルで納得しろといわれると、これは主観の問題になってしまいます。さらにそれが不服であれば自分で理論化せよという話になっています。この辺り、疑問をもっている客相手に、セールス的にはどうかという感じもしますが、山形氏も疲れてきたのでしょう。問題の仕切り直しを勧告します。


404 Blog Not Found:There's gotta be more than one theory to run the bazaar-山形さんのコメント
あなたの最初の主張は、経済成長を求めるのがまちがっているということでした。
(略)
問題を仕切り直したほうがよろしいのではないでしょうか。
今の日本においては、経済成長よりも先に考えるべきことがあるのではないか、と言ったのです。また、経済成長一般が悪だと言った訳でもありません。


弾氏はここで、一番最初にbewaad氏が塗り替えた点を指摘します。なるほど、ここでやっと分かりました。弾氏は、経済学の考え方から学習出来る事を効率よく吸収するために、齟齬は無視してボールをどんどん投げて引き出していたという事なのですね。確かに、最初から、決め付けの論点を非難した点を最初から指摘して「言葉尻を捉えて、私の論旨とは関係ない印象を作っておられますが、私の使った言葉の使用法は、あなたの仰るとおりの意味ではありません。ごきげんようさようなら」と言ってしまったら、そこで終わってしまいますからね。経済学に馴染んだ人が、国民生活の改善や国力増大の基準でしかない経済成長に、「各種発展途上国、つまりはかれらの生活水準の向上を助けることになる」といったロマンティック?な意味を感じているといった事を開陳してもらうには、流れで面白いものがあれば、そちらにすぐ興味が移って行く弾式学習法あってこそなのかなと。もちろん、『山形浩生 の「経済のトリセツ」Supported by WindowsLiveJournal 』的にも、経済学の効能の啓蒙活動としては充分と言った感じでしょう。商品説明のように役に立つかどうかを判断するタイプの知識を手に入れる学習法としては、効率的なやり方ですね。


という風に、これはこれで興味深いやりとりを見せて頂きました。私はもう完全に弾氏の惹きつけ方の巧みさに「あー釣られてた」という感じです。と、それでもいいのですが、「宵越しの金を持たないとのたれ死にするのではないかと不安」という話に興味をもって見ていた一読者的には、やはりもやもやとしたものが残るのです。のたれ死にする不安そのものが具現化されている事態、国民健康保険料高騰化、ワーキングプアな人々の存在といったナショナル・ミニマムの底が抜けている事への対処の話そのものが雲散霧消された事に。*1

*1:これは、別に非難とかではないです。私が単に日曜日のNスペ(ゆきづまる国民健康保険)を見ていてふと、今後人が不完全義務みたいな物に取り組もうとした時に、もしこのケースのように起点の話が別方向に行くやりとりの一例を整理して(整理になってないかも)みたくなっただけです。今回のやりとりの齟齬がどんなものかを見ておけば、「経済成長は手段か目的か?」における「社会選択のシステムがパレート効率的であるにも関わらず不平等な配分に収束しうるというのだ」という問題を、経済成長論議から切り離して、自由に論議できるとよいなと思っただけです

小飼弾氏の”経済成長”論争のまとめ

”経済成長”という単語の、素人と経済学に通じた人との間での、言葉の意味の齟齬から発生した論争についてまとめておきます。普段経済に疎い人が「経済成長」の概念と、経済学的視点な人がその意義を主張する理由を知るには格好の教材だと思います。いい加減な要約をつけてますが、文意を読み損ねている事もあろうかと思われますので、あくまで中身で判断してくださりますようお願いします。



1.景気が悪いという巷の声は当たっているが(@大西 宏のマーケティング・エッセンス)

  • 景気判断がまた悪くなってきたから民間は、仕事の仕方を見直して元気でいようよ。政治家や官僚は、国内の企業じゃなく国民の消費の刺激と所得水準向上策を考えて欲しい。


2.もう景気はいいから(@404 Blog Not Found)

  • 刺激は不要。不安が原因だから「経済成長(a)」を追うのやめて景気に左右されない社会に転換しよう


3.経済成長は必要だ!(@Bewaad institute)

  • 「経済成長(b)」しなくていいと言うことは、日本の生活水準の安定ではなく退化だ!


4.経済2.0=複素経済学への道程(@404 Blog Not Found)

  • 「経済成長(a')」は、金も技術も人も「リソース」名の下に十把一絡じゃないか、そんなもの指標にならない


5.経済学1.0のススメ(@Bewaad institute)

  • 複素経済学への道程で示された事は全て、今の経済学からみて妥当だとは評価されていません。既存の経済学を勉強することをお勧めします。


6.経済成長は、ぼくたちの努力や成長の総和でしかない。(@山形浩生 の「経済のトリセツ」)

  • 「経済成長(b)」の言葉の意味を理解してないようだから、教示してしんぜよう


7. 群盲成長をなでる(@404 Blog Not Found)

  • 成長の質を計るのに、「経済成長(b)」というのを使うのはおかしくない?


8.価格への信頼=市場への信頼(@Bewaad institute)

  • いいえ、概ね使えるので問題ないですよ


9.成長をなでる「盲」ってだぁれ?(@山形浩生 の「経済のトリセツ」)

  • 「経済成長(a')」なんてとっくに昔の人が考えてます。「経済成長(b)」は積み重ねて研究されているから使用は妥当なの


10.観客の意見

  1. 「経済成長(a')」って不勉強のいわゆるトンデモだねとか、あと歴史的にはこういうのもあるよとか。
    1. 「癒し」の経済学とか「複素経済学」とかw(@Economic Lovers Live)
    2. 妄想の「経済成長無用論」(@すなふきんの雑感日記)
    3. 弾氏の「群盲成長をなでる」を読む(@A.R.N [日記])
    4. 「経済2.0」とか「複素経済学」とか(@インタラクティヴ読書ノート別館の別館)
    5. 過剰人口によるひとりごと(@BUNTENのヘタレ日記)
    6. 弾さんの経済学理解(@cloudyの日記 )
    7. 飛べ!日本経済〜成長会計で考える〜(@ハリ・セルダンになりたくて)
  2. 「経済成長(?)」信奉者がなんか言ってますね。
    1. 20世紀の3大遺物〜ノーベル賞、五輪、GDP(@佐藤秀の徒然\{?。?}/ワカリマシェン)
    2. 山形ちゃん、またですか。ほんとに世話が焼けますね (@あほあほ機動戦隊フマさん)
  3. 「経済成長(a)」と「経済成長(b)」の捉え方の齟齬がある点が問題なのでは
    1. 小飼弾氏(@ただいま営業中)
    2. 経済が元気ってどういうことだ?(基本原理?編)(@赤の女王とお茶を (生存適者日記))
  4. 「経済成長」とかが話題になってるけど、実務的ではそんなもの気にしてないけど、その合計が成長してればいいんじゃないの?
    1. 経済成長以外のものを目指した方が、むしろ経済が成長する(@分裂勘違い君劇場)


11.飯田泰之「ダメな議論」(@Bewaad institute)


12.ダメな議論(@404 Blog Not Found)

  • 飯田泰之「ダメな議論」弾氏による書籍レビュー


13.正しい人たちによる間違った議論(@分裂勘違い君劇場グループ - 劇場管理人のコメント )

  • 本質的に必要なのは、みなが納得いく社会を作ることである。学者や官僚にとっては、客観的な指標によって計測可能な「経済」であることが、最も重要。ディシジョンメーカーの弾氏の視点は「実際の生活者である僕たちは、今後、具体的にどのような方針で、どのように行動すればいいのか?」ポジションの違いでしょ!


14.「経済学」論議と「水からの伝言」(@ふぉーりん・あとにーの憂鬱)


15.専門家の傲慢、素人の怠慢(@404 Blog Not Found)

  • 「人間の幸福はお金を持つことなのか」と言う疑問。専門家はそれのスマートな表現を追及したがる人。そこで専門家が素人のやり方がダメだとばっかり言っていってるのは経済学者しか話するなってこと?


16.「素人お断り」?(@ふぉーりん・あとにーの憂鬱)

  • そうではなく、思いつきをまず検証して学ぶ姿勢以前に、経済学を貶める事で自説の結論の権威付けに利用としてるだけでは?


17.論理以上の方法論。論理囲繞の魔法論。(@Nash Bridgesの始末書)

  • 弾氏のアプローチは「『みなが納得いく社会』・『万人の幸福』というゴール」を実現するためのロードマップを描く際に「結論から逆算された思考」ではなく「結論へ辿り着くための思考錯誤」を行っていると見た


18.一般人が行う経済学批判の作法(@分裂勘違い君劇場グループ - 劇場管理人のコメント )

  • アカデミックな空間と、娑婆では「経済」は意味が違う。そこを専門家がつっこんだらいくらでも突っ込めるけど、それはピンボケ。逆に、一般人が経済学批判するなら、何を批判しているか明示せよ。


19.経済学からの伝言(@404 Blog Not Found)

  • 経済学とは、少しずつ手入れして築いた理論体系である事は認めている。だが、素人が疑問を挟む余地の無い程完璧なものではないよ。例えばopen source を「モノの経済学」で表せる?


20.経済学からの伝言(@404 Blog Not Found:コメント(山形氏))

  • 拙訳エリック・レイモンド「伽藍とバザール」三部作で、それを経済学に組み込む取っ掛かりを作ってますよ読みましたか?後「おれは素人なんだから教えろ」と言う姿勢は問題ですよ


21.情報(知的財産)と経済学(@Bewaad institute)

  • 情報のコピーしても減らない性質の、既存の経済学からの説明


22. There's gotta be more than one theory to run the bazaar(@404 Blog Not Found)

  • 伽藍とバザール」をもって「リアル」を説得するのは非常に難しい。$200,000分はオープンソースに貢献したけど、これって経済学的に表現できますか?寄贈するというモデルしか持ってませんよ。


23. There's gotta be more than one theory to run the bazaar(@404 Blog Not Found:コメント(山形氏))

  • 伽藍とバザール」はオープンソースとリアル経済との共存を示している。そもそも元の問題意識から大分ずれているので、問題を仕切り直されたほうがよろしいのでは?


24.経済成長は手段か目的か?(@404 Blog Not Found)

  • ならば、そもそも自説が、「経済成長(b)」を否定している山形氏の方がいいがかり。「経済成長(a)」よりも先に考えるべきことがあるのでは?と言っているだけで「経済成長(b)」を否定している訳ではない。要は配分の問題。


25.パイを誰と分けるのか?(@ふぉーりん・あとにーの憂鬱)

  • それは配分の問題を国内でしか見ていなのでは?途上国の貧困への無関心ではないですか?不法に国内に押し寄せる可能性や、彼らの生活の向上が視界に入っていないのでは?


まだ続きがありますが、一先ずこの辺りで。弾氏の議論展開の流れにそった筋は追っていると思いますが、見落としや誤読があればご指摘して下さると助かります。

ふぉーりん・あとにー氏へ通りすがりより

あなたこそ、途上国の貧困を慮るのは自身の視点を上位に置く為の張子の虎で、弾氏の言説を比較優位を保てなくなるだけだと決め付けて恐怖に怯えてるのでは? センを引用している相手に、途上国の貧困への考慮を促しているが、以前のエントリで経済学の教科書嫁とか見下しておいてそれは…… 自分には弾氏のレトリックを読み解くリテラシーが不足とか韜晦を気取ってるけど、失礼ながら、ただ単に本当に読み取れてないではないでしょうか。

    • Posted by 通りすがり : 2006年11月14日 12:55


通りすがりです。ただの通りすがりのコメントに、思わぬ長文でコメントを頂いてしまったので、書かせてしまったからには、こちらも責任を取らないといけないと思いキーボードを叩いてみました。ですがコメント欄では収まりそうもないのでblogにしました。


まず、比較優位を保てなくなる決め付けと言ったのは、( 飛べ!日本経済〜成長会計で考える@ハリ・セルダンになりたくて)の飛べ!日本経済のパラグラフのような、国際競争力維持は国是だ!的価値観に弾氏が”対立”する価値観の持ち主である事を決め付けて、それに怯えているのではないのですか?と言う事です。弾氏の元のエントリーは、「景気拡大を目指す社会から、景気に左右されない社会」とまで言っているある種の社会主義の新形態?と受け止めても別に不思議でないような、あまりにも壮大過ぎて(今の経済学的視点からは量るような性質ではない)漠然とした思いつきの一つとかそんなものだと思います。その中で出てきた「経済成長を追っているうちはまだ日本は中二病なのだと。」と言う言葉を、上のエントリでは、世界の他の国と比較して努力をやめようと言う志向を目指している意味の危険思想だ!と勝手に推測して解釈しているようですが、それに類した思考かなと思ったのでそう書きました。と言っても、その経済成長の意味そのものが問題になっている状況なので、それがうまく伝わらない訳ですが。そして、その構想か妄想かの中にあった弾氏の一言が、経済成長に関しての一連の流れを作り、経済学を学んだものから見れば明らかな誤用だと言う事を非難する、経済成長と言う言葉の使い方論に摩り替わっていますよね。弾氏の主張の真意から外れて経済成長の意味論に持って行った官僚氏の得意な弄り方に旨く嵌められた弾氏が、自身の経済観について語らざるを得ない状況になっていますよね。その一連の中で、47th氏は

でも、途上国の貧困と自分たちを結ぶ線の存在への無関心こそが、今なお世界中に蔓延する貧困の前に立ちはだかっている壁だと考え、その無関心をどうにかしたいと願う人間にとっては、やはり見過ごすことはできないのだと思います。

と言う疑問を提示されました。また、
山形氏:

アメリカやアジア、各種発展途上国もある。ぼくたちが経済成長すれば、そうした国々の商品を買って、その国々の経済成長――つまりはかれらの生活水準の向上――を助けることになる。

bewaad氏:

実は私は通りすがりさん*1がご賢察のとおり、怒りをもってエントリを書きました。というのも、実際に経済成長が十分に図られていないがゆえに苦しんでいる人が多くいるわけです。

と、弾氏を批判しておられる方は揃って口にしておられるので、経済成長と言う指標を大事なものだと言う事の一つの理由として、生活水準の向上や苦しんでいる人が救われる事に繋がるからだと言う、利他的側面の肯定のためと言っておられます。そして、それ故に弾氏の経済成長の使用法は許されないと言う認識でよいのですよね?それを踏まえた上で、ここで大きな疑問があります。

(※3)ちなみに、その無関心に対して、もっとも長く激しく戦ってきた人の一人こそ、弾氏が同一エントリーで文脈こそ違えWikiからその説を引用したアマルティア・センです。

とおっしゃってますが、弾氏はまさにそれを認識しているからこそ、このエントリでアマルティア・センの「貧困の克服」をリンクしてると言う解釈は考えられないでしょうか?弾さんの仰る「もう我々のパイは十分だから、我々の中での分け方を考えるべきだ」の「我々の中での」と言う発言は404 Blog Not Foundのどこにあるのでしょう?「経済成長は手段か目的か?」のエントリを貧困の克服を意識している前提で読めば最低でも、途上国でパイを拡げるために、先進国ではそのパイの余剰分を途上国に回すと言う選択を否定してはいない程度の解釈をする方がずっと自然なのではないのかと思います。もっと積極的にあってもいいのではないかと暗示していると理解をしても何の問題もなく読めると思いますが(そろそろ我々の社会はセンの主張に目を向けるべきではないのですかと言う意味)そこまでは弾氏本人でないので量りかねますが。無意識にわら人形論法(Strawman)を使っていませんか?まさか、アフェリエイトの為の引用に見えていたりしていますか?そうなると、コメントで指摘した通り、文章から意図を読み取る時に弾氏の意図から真逆に恣意的、それもかなり悪質に解釈しているのではないのかとすら思わざるを得ません。ですが、この2つのエントリを並べて見ている限りお二人の価値観の中に、47th氏が抱いているほど大きな亀裂があるようには見えないのですが。


「Amartiya」(@404 Blog Not Found 2006/02/13)


「開発」(あるいは「発展」)って何だろう? (1) (@ふぉーりん・あとにーの憂鬱 2006/01/28)


弾氏がリンクしている、「人間の安全保障」でセンが17条憲法の第十条について言及しています。
「人の違うことを怒らざれ。人みな心あり。心おのおの執るところあり。彼是とすれば、則ちわれは非とす。われ是とすれば、則ち彼は非とす」(「人間の安全保障」アマルティア・センp86 )
この第十条の全文は、こうなっています。

十七条憲法 第10条:
 十に曰く、こころのいかりを絶ち、おもてのいかりを棄てて、人の違うことを怒らざれ。
人みな心あり。心おのおの執るところあり。
かれ是とすれば、われは非とす。われ是とすれば、かれは非とす。
われかならずしも聖にあらず。かれかならずしも愚にあらず。ともにこれ凡夫のみ。
是非の理、たれかよく定むべけんや。あいともの賢愚なること、みみがねの端なきがごとし。
ここをもって、かの人はいかるといえども、かえってわがあやまちを恐れよ。
われひとり得たりといえども、衆に従いておなじくおこなえ。

アマルティア・センが引用されたのと同じエントリーで、経済学的に正しい用法を使わなかった事を錦の御旗に、strawmanで弾氏の人格を貶すような行為をしているのを知ったら、センはどんな気分になるんでしょう?と言う言い回しはちょっと皮肉が過ぎるでしょうか? と、通りすがりの返信?にしては長くなってしまいましたが、

「ブログはサービス業でござい」というレベルまでいくとつまらなくなりますが、読者に不快感を与えない技術もある程度必要でしょう。「辛口の罵倒芸」というものもありますが、それが「芸」であって、単なる罵倒に堕して読者が引かないためには、実は高度なセンスが要求されるでしょう。

辛口の罵倒芸というものであろうかとも思いますが、私から見るとちょっと過ぎた面があるように感じたので、暴走しましたが、アルファブロガー相手なら許容範囲だとかblog界の文法的な事は良く見えてないだけの事かもしれないので、その節はご容赦して頂ければと。

*1:※ちなみに、この通りすがり氏と私は別人です